まさP通信 臨時号:元TPDの中川雅子が、ついに原宿RUIDOで魅せた「ひとりTPD」の景色

2024年2月23日、元TPDの中川雅子、通称「まちゃこ」が中心となり、原宿RUIDO(ルイード)にて「ひとりTPD」の公演を敢行した。ファンのひとりでもある私は、この公演を観て、いてもたってもいられなくなり、当時発行していた同人誌「まさP通信」をおそらく1回限り、約30年ぶりに復刻したいと思う。

まさP通信のコンセプトは「公開ファンレター」であることからお見苦しい点はあろうと思う。また、「オニオン座」の他記事とはかなり趣が異なること、少々長い記事となること、あわせて9年前に書いた中川雅子に関する記事と一部内容が重複する点もご理解いただきたい。

じゃあ、始める。

目次

中川雅子と東京パフォーマンスドール(TPD)の関係

Quoted:https://www.sonymusic.co.jp/artist/tpd/discography/

Quoted:https://www.sonymusic.co.jp/artist/tpd/discography/

中川雅子が所属していた東京パフォーマンスドール(TPD)については、以下の記事が詳しいが少し肉付けしつつ大まかに再掲する。古参の大きなお友達諸君は読み飛ばしてかまわない。

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1976年10月5日生まれ。「有名になりたい!」「金持ちになりたい!」に執着せず、「学校に行かなくて済むんじゃね?(きっぱり)」という斬新な動機でアイドルを目指した中川雅子。彼女はEPICソニー(現ソニーレコード)のオーディションに合格後、1991年にTPDへ参加した。当時14歳くらいのときである。

TPDの初期メンバーは、木原さとみをリーダーに、篠原涼子や市井由里、穴井夕子などがおり、その妹分となる第二期メンバーとして中川雅子は入団した。

そもそもTPDは、バブルがはじける約1年前となる1990年に、EPICソニーが展開したプロジェクト。今で言うダンスアイドルグループとも言える。しかし「可愛ければ売れる」「溢れる才能があれば売れる」といったアーティストの個性依存でなく、あえてレコード会社側が自ら設定したコンセプト、すなわち「ドール」でどこまで出来るかを追求した、一種のアンチテーゼ的かつ実験的な取り組みで始まったとみられる。しかし徐々にそのコンセプトは曖昧になり、タレント活動のためメンバーがライブを欠席するといった本末転倒が頻発したのは、きっと大人の事情なのだろう。

ともあれ、当時はトレンド発信地として渋谷よりも人気絶頂であった原宿の、それも中心地にあるライブハウス「原宿RUIDO」にて入場料1,000円という激安価格を以て連続公演することができた。

エピック・ソニーの創始者、丸山茂雄氏が関わるプロジェクトであったためか、制作スタッフも異常だった。構成・振付・演出には劇団四季出身でユーミンや後にマッスルミュージカルも手がけた異能の人、故中村龍史氏(なかむらりょうじ)が担当。サウンドプロデュースはマイケル・ジャクソンや安室奈美恵等の大物アーティストも手がけ、後にソニーミュージックダイレクト代表取締役やSME常勤監査役にもなった清水彰彦氏(しみずあきひこ)、通称アッキー清水氏。音源制作も3組のサウンドユニットを使い、時には大物作家も参加させた。

「ドール」というプロジェクトの特性上、当初はオリジナル曲はほぼなく、ユーロビートやテクノハウスで70年代ソウルや演歌をカバー。良音と高価な照明の先に、そして極めて近距離でTPDがキレキレのダンスをする、という客からすれば夢のようなステージだった。当然、地下アイドルとは次元の違うものであった。

こうして投資を重ねてくれたから、客としても大変贅沢なステージを格安で観ることができ、その出来映えからもアイドルファンだけでなく、演劇や音楽好きなど幅広い客層を得られた。

しかし後期は特にバブルも弾けたためか、コンセプトのズレも歪みとなっていった。そんななかで、残念ながらタレントとして開花することができなかった中川雅子は、不遇を耐えながら横浜アリーナ公演まで頑張り抜き、他の数人といっしょにひっそりと退団することとなった。私は、中川雅子も、そして魅力的だったコンセプトを失ったTPDに何ら魅力を感じることができなくなり、TPDを離れていった。

結果、当初は客が数名程度だったTPDは、解散した1996年までに計300回以上のライブを行い、全国ツアーから渋谷公会堂、武道館、横浜アリーナと上り詰めていった。CDもシングルCDは56枚、アルバムCDは22枚、ビデオ・LD・DVD17枚を出した(Wiki調べ)。TPDは約6年間で活動を終了したのだ。後の新生TPDは何も分からない。

まさP通信とは

まさP通信とは、私が若き頃、中川雅子のために作成し、配布していた無料同人誌(数ページのコピー誌)のことである。これについても以前の記事が詳しいが、同様に補足説明をしたい。

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まさP通信では、ファンレターでは伝えきれない想いみたいなものや、中川雅子の良さを他のTPDファンと共有したいし、その様すら中川雅子に知ってもらいたい。イチオシが決まっていない人を中川雅子ファンに引き込んで仲間にしてしまいたい。私にとって共通言語でもあった「中川雅子好き」を通じて、TPDファンとコミュニケーションしたい。当時はネットもなかったから、画を描いてくれる人、文章を書いてくれる人、セットリストを教えてくれる人とも仲良くなれた。そのたびに中川雅子の話をした。たくさんの中川雅子への気持ちが詰まっていた。

でも、もし中川雅子が可愛いだけの子なら、もし私がファン仲間と仲良くしたいだけだったら、すぐやめてしまったと思う。ひたすらに明るく振る舞い、ひたすらに努力して、壁にぶつかりながらも少しずつ成長している中川雅子を観て、オレも頑張らなきゃって思わせてくれた。だからまさP通信は続けた。とにかく私は、中川雅子にとって特別な人になりたかった。

あるとき、中川雅子から私が文鳥をもらったことをきっかけに、私のあだ名が「文鳥」となった。みんな笑ってくれた。中川雅子もそうだが、アイツもタダ者じゃないと。前よりもっと仲良くしてくれた。古参客の中心派閥?であった「一味」と仲良くさせてもらって、製本同人誌の製作や寄稿もさせてもらった。アッキーさんやスタッフさんとも仲良くしてもらい、結果、音楽製作の道に進むことができた。

そんなまさP通信も、いつだろうか。武道館公演の頃には自然に休刊してしまったと思う。私も音楽業界で働くことが叶い、多忙となったからかもしれないが、それだけではなかった気もしている。

あれから約30年経った。数回の望まない引っ越しにより過去の私物は全て捨てられてしまい、私の手元にまさP通信も一冊もない。だけど中川雅子はいまだに全て持ってくれているそうだ。

ひとりTPDとは

少し話を本筋に戻したい。正直、TPD退団後の中川雅子について、私は疎い。だからほとんど想像だが、こう思える。ひとりTPDとは「ひとりぼっちのTPD」ではないはずだ。

遡れば、中川雅子は、TPD退団後にタレント生活から離れていたが、2012年頃にTPDの総合演出等を手がけた中村龍史氏が主宰する「CHANCE」というパフォーマンスグループに入団したのだ。

CHANCEは、赤坂CHANCEシアターを中心に行われた演劇的なパファーマンスだけでなく歌モノもあり、中川雅子はCHANDOLLというユニットに所属した。CHANCEおよびCHANDOLLは中村龍史氏のエッセンスがTPD時代よりも濃く、アッキー清水氏も関わっていたこともありTPD曲を使用することもあった。

「ひとりTPD」とは、この頃、中村龍史氏と中川雅子の会話で生まれた言葉だそうだ。TPDをもっとやりたい。きっと中川雅子は言ったのだろう。詳しくは分からないが、中川雅子は「ひとりTPD」をやることを中村龍史氏と約束したのだろう。しかし中村龍史氏は2020年1月22日に惜しまれつつも逝去されてしまった。

元メンバーは中村先生の遺伝子を引き継ぎ、「ひとりひとりがTPDであり続ける」であり、元ファンも「ひとりひとりがTPDを好きであり続ける」。そしてTPDと、TPDにより恵まれた全てへのこと、あのときの自分、あのときの何かに対する情熱を忘れないこと。こんな具合と勝手に私は思っている。だから中川雅子も、本人と共にしている元メンバーも、そして元ファンも、「ひとりTPD」なのだろう。

そもそもTPDは女性だけのグループであり、初代メンバーやらフロントメンバーのヒエラルキー、そして入団前からの経験や年齢の違いもある。これでは全員が仲の良いグループだったと考える方が不自然であろう。いわゆる第二期メンバーであり、ソロでの持ち歌がアルバムに収録されることもなかった中川雅子は、非常に立場も辛かったことだろう。もちろん大藤史のようにずっと寄り添ってくれたメンバーもいたが、中川雅子のTPD在籍時代はネガティブな時間が多かったと思う。

にも関わらず、中川雅子はTPDに対しての想いが強かった。情熱は誰にも負けなかった。それを中村先生に見抜かれた。そして、ひとりTPDを敢行したのだ。自ら音源や会場ブッキングのみならず、ステージングの全てをひとりでやりきっていった。

月日が経ってもここまでTPDを好きでい続けること。好きなだけでなく、ひとりでやり続け、元メンバーなどを徐々に仲間を増やしていったこと。大昔ながら音楽業界にいた私からすれば、あるいは誰の目から見ても、想像を絶する努力と情熱が中川雅子にはあった。

それでも、どうにもならないことがひとつだけあった。それはTPDの生誕の地である、原宿RUIDOでの公演である。

音源は手に入った。振り付けは思い出したり資料を確認したり元メンバー等に聞いてみるなどすれば不可能ではない。しかし、それら再現性と習熟をいくら高めようが、原宿RUIDOはすでに取り壊されていた。全く別のオフィスビルとなったのだ。その後も原宿RENONという別のライブハウスは地下にオープンしたが、「あの場所」でTPDをすることが叶わなかった。

奇跡も願えば叶う。2024年2月23日の原宿RUIDOで「ひとりTPD」凱旋ライブ

2023年のある日、中川雅子からSNSで朗報が発出された。「原宿RUIDOでひとりTPDやる!」と言うのだ。
私も調べてみると、ライブハウス原宿RENONは、いつのまにか原宿RUIDOと改名してリニューアルオープンしていたのだ。Wikipediaによると2022年7月1日らしい。

ところが原宿RUIDOといえば、過去には「伝説のハコ」であったこともあり、使いたくても予約でいっぱいだったはず。それを「ひとりTPD」が10周年を迎える2024年、実現することができるというのだ。

しかしどうだろう。原宿RUIDOのブッキングが決まってからの中川雅子の感じた重責は、並大抵のものではないのは火を見るよりも明らかである。

原宿RUIDOでの「ひとりTPD」。これがもし万が一、無様に終わってしまったら「ひとりTPD」って何だったの?と天国の中村先生から思われてしまうという恐怖。あるいは不可抗力な問題が起きてしまったら。例えば、新型コロナも完全終息しておらず、普段からマスク手洗いをして近所に買物に行くだけで感染する人もいる最中、開演日に自分が罹患してしまったら。考えても仕方ないことまでが中川雅子の心に襲いかかっただろう。

しかし、神様は中川雅子を、そして応援してくれた全ての人を見放さなかった。結論から言えば、残念ながら新型コロナにより1名の欠員は出たものの、予定通り原宿RUIDOでのひとりTPDは決行できたのだ。

当日は昼過ぎと夕方の2部公演だったが、私は、1部の方を鑑賞することとなった。その日、2月23日はあいにくの小雨だった。しかし久しぶりに来た原宿はだいぶ変わってしまっていたな。

原宿RUIDOに到着。大昔の光景とはかなり違っていたが、原宿RUIDOのロゴがそこにはあった。

立て看板には、間違いなく「ひとりTPD」。中止などとは書いてない。少し安心したが、中川雅子の顔をステージで見るまで安心しない。

原宿RUIDOに入場した。中身はまるで違うライブハウス。だが、いつもあるお花に少し安心感を覚えた。中川雅子もきっとそう思ったことだろう。

地下に入り、初めて見る新生原宿RUIDO。椅子席のみであったため定員は100名ほどで、以前のRUIDOと広さはさして変わらない。ただしステージは台形のようで上手側(ステージをみて右)に少し伸びており、客席もやや扇形になりつつも同様にいびつではあった。客席の後方は1段上がっていて、関係者席と、さらに後ろにスタンディング可能スペースがあった。

関係者席には、アッキー清水氏や、TPDの生みの親でありソニーの音楽を牽引した丸山氏、元CoCoの宮前まき氏などの名前があった。彼らは古参のTPDファンと同窓会のように、にこやかに話をしていたのが印象的であった。

さらにスタンディング可能スペースでは、カメラ三脚にiPadが設置されており、中川雅子の資料用として撮影するとのこと。スタッフさんや古参客が協力しながら設置場所を調整するなどしていて微笑ましかった。

そして「ひとりTPD」ライブが始まった。

2024年2月23日(金)原宿RUIDO「ひとりTPD」の景色

誠に勝手ながら本稿はまさP通信であることから、中川雅子が出演した曲だけで失礼する。また曲名曲順はメモを取っていたわけではなく、極めて情緒も不安定であったため記憶に少し自信がない。もし間違っていたら優しい気持ちで忘れて欲しい(うそです、ご指摘ください)。

SE〜M1.Back In The U.S.S.R.

宇宙服のようなキラキラした衣装を着た、ひとりTPDメンバーがステージに現れた。たしかに初期TPDオープニングといえば、この曲だ。しかし私の頭には色んな事が駆け巡った。そもそも私は同曲に思い入れはない。でも最大級にTPDをリスペクトするならこの曲なんだろうな、やはりピーターガンではないんだな、という印象。

そんなことより、中川雅子がステージにいるかが気になった。自分の目で見るまで安心できない。

・・・いてくれた。中川雅子がRUIDOに帰ってきたのだ。無事だった。ちゃんとステージに立ってる。おめでとう。ありがとう。頑張ったね。本当に申し訳なかった。

まだまだ始まったばかりだというのに、私は涙が止まらなかった。

今日、このときまで、本当に大変だっただろう。でも、叶えたね。また奇跡を起こしたね。良い仲間を持てたね。中村先生にも胸を張って報告できるね。いや、中村先生は、きっと今ここで楽しんでいるよ。感謝と喜びと幸せが押し寄せた。

同時に胸が苦しくなった。私は不義理だった。Chanseから始まっただろう中川雅子のステージ人としての再興に、全く応援できていなかった。最も辛かったであろうときにも応援すらできていなかった。約9年前の「あなたといっしょ」リリース記念ライブには無理を押して参加したが、罪悪感にも似た何かに負けてしまい、それ以降は何もできなかった。入院したときも声すらかけられなかった。

そんな私を、今でも「ファン第1号だった」と覚えてくれていて、そんなに思ってくれていたのに、何もしてなかった。言い訳したいことはいくらでもあったが、謝罪の気持ちも溢れた。とにかく感情が追いつかない。

だが、せっかくなのだから楽しまなければ中川雅子をはじめ、メンバー全員、関係者全てに失礼だ。そして当ライブをきっかけに machako.jp もリリースできた。これからだ、ヨシ、と熱いものがこみ上げつつ、気持ちを切り替えていった。

machako.jp-中川雅子(元TPD DASH!...
machako.jp-中川雅子(元TPD DASH!!)の情報を発信中 元TPD DASH!!(東京パフォーマンスドール)のメンバー、中川雅子(まちゃこ)の情報を集めた公認ポータルサイトです。

M2.ブギウギ・ダンシング・シューズ
M3.JUST LIKE MAGIC

中川雅子のボーカルにやはりおかしな様子はない。万全な状態で挑めているな。よかった。むしろ堂々と歌い上げている。その歌は、当時はなんというか可愛いが勝っていたが、今は違う。声も出ているし歌詞の意味も理解して気持ちがこもっている。

ひいき目かもしれないがダンスも冴えている。振り付けも完璧にあの頃と同じ。ああ懐かしい。歌声とリズムに身体も動いてしまう。あの頃の楽しかったこと、辛かったけど今はすでに乗り越えていること、様々なことがフラッシュバックする。入り待ち出待ちしたな。文鳥もらったな。盗録したテープを一緒に聴いたな。他メンバーに「中川さんに渡して下さい」とまさP通信を渡したら「あ、まちゃこの人だ」と言われたな。私もTPDで人生が変わった一人で、中川雅子が全てを動かした。もう幸せである。

M5.誓い

ちーちゃんこと川村知砂さんがメインボーカル。バックコーラスは徳永愛さんと中川雅子。ううむ懐かしい。川村知砂さんの安定感、キレのあるバックの二人、安心して見ていられる。ようやく普通に楽しめるようになってきた。ダンサミだ、これがダンス・サミットだ。

しかし上手側の立ち位置が微妙だ。変形ステージのせいなのか、それともバミリがアレなのか。しかしここまできてステージングに何も違和感がないことに気付いた。昔のRUIDOも場にそぐわないほど大きなスピーカーでけして見やすいとは言えなかった。比べてしまえば照明は良くない。当時はインテラや人力ピンスポが二人いたからな。しかしステージは、TPDのマネではなく、これがTPDだ。そう思えた。

M9.ナオミの夢

川村知砂さんのソリッドな声と、色気を増した中川雅子の声。頭空っぽで楽しんでいる。すでに私の脳みそは溶けている。

M12.ビバ!ケ・セラ・セラ

イントロだけで目が覚める、TPDを象徴づける名曲。初めて鑑賞したときは度肝を抜かれたが再びRUIDOで観れるとは。メンバー5名がけして広くないステージが花を満開に咲かせた。メインボーカルとなる中川雅子は、ここまでクールな曲が多かったが、ここにきて満面の笑みを見せてくれた。楽しそうに、いや楽しく歌っている。ああ、これだよこれ、私は中川雅子の笑顔を観に来たのだ。

M13.おちゃめなジュリエット

レトロかわいい衣装を着飾った鈴木明子さんがメインボーカル。バックは中川雅子と徳永愛さん。まあ踊る跳ねるスゴい(語彙力)。もちろん振りも完璧。早変わりも健在だった。照明がもっと充実していれば。

M15.君はボーイフレンド

メインボーカルは徳永愛さん。バックダンサーは中川雅子。正直、徳永愛さんにやや疲れのようなものを感じていたが、中川雅子の良い意味であっけらかんとしたダンスがそれを吹き飛ばしていた。そして非常に身体を大きく使っていて、コールアンドレスポンスもさすがといったところだった。とはいいながら、あくまでこの曲の主役は徳永愛さんであることを理解し、引き立て役に徹するわきまえ、徳永愛さんへのリスペクトのようなものを感じた。

M18.夜明けのハート

メインボーカルは我らが中川雅子である。当時の米光美保さんとどうしても比較してしまうが、今日の中川雅子の方がソウルフルであり、好き嫌いで言えば大好きである(当社比)。もちろん前曲からの入りも、ステップも流れるように素晴らしい。ステージから掃けるときの雰囲気も当時のまま。

M20.Love Is The Answer~ストレート・アヘッド
M21.I’M SO EXCITED

後半戦にさしかかりメンバーも客も温度を上げた。大人しかった客も手拍子せざるを得ない。川村知砂さんの圧倒的な存在感に中川雅子も負けていない。かっこよく、それでいて丁寧に歌い上げて素晴らしい。などと言っているが正直なところ夢中になっていて詳細は覚えていない。とっくに私の脳みそは溶けている(本日2度目)。

M22.愛なんて

新井雅さんがボーカル。横浜アリーナでTPDから離れてしまった私は、YouTubeでしか聞いたことがなかったかもしれない。しかし新井雅さんのボルテージが一気に上がり、また鈴木明子さんのダンスの表現力にも圧倒されてしまった。中川雅子は後列でのダンスだった。

M24.バッド・ディザイアー

前曲の「砂に消えた涙」でしっとりしたところから、いきなりのトップギア。これがダンサミの醍醐味である。もちろん川村知砂さんのボーカル。「愛なんて」では新井雅さんも大したもんだと思っていたが、やはり川村知砂さんはさらに上を行っている。そして煽る煽る。会場が一体になる。

ダンサー陣も負けていない。まさに、あの頃のTPDだ。皆、疲れを感じさせず、むしろキレの良さが加速している。まるでゾーンに入ったようだ。私の脳みそ(以下略

M25.空に太陽があるかぎり

初期TPDのみを踏襲するならなかったであろう同曲。しかし個人的にはどうしても聴きたかった曲であった。バッド・ディザイアーからの空太(そらたい)、イントロの四つ打ちバスドラと、あのピアノフレーズだけで鳥肌が立ち、叫びたいほど腹の底がアツくなった。当時のパステルブルーのエナメルトップス?を着ていた中川雅子を思い出す。あの頃、この曲は自信に満ちた顔してたな。いや、不安で表情が固まってたのか。再び想いが巡る。

M26.OVERNIGHT SUCCESS

前曲で再び感情があふれ出しているところ、「信じてくれているあなたに」「見つめられて夢は叶うの」という歌詞が心に染みる。さらに、推しメンバーへ指を指し、推しメンバーが指を指してくれる曲であることを思い出した。「あ!オレのこと指さしてくれた!」と勘違いさせつつ、メンバーと客の距離を一気に縮めてくれた曲。客をトリコにする曲。今日は指さしてもらえたかな。この日だけは腕が9本欲しかった。

EN1.ロコモーション

そりゃ、Explosionではないよね。しかし、この曲の次で終わりだろうな、ダンサミにはMCはなかったから同じようにするのかな、中川雅子も他のメンバーも、言葉でみんなに伝えたいことあるんだろうにな、とやり場のない気持ちに。どうしようもないので手拍子で応えるしかなかった。

<MC>

よかった。川村知砂さんが中川雅子を心底ねぎらってくれている様を観て泣いた。そして、もし中川雅子が原宿RUIDO公演で燃え尽きてしまったら、もし目標を失ってしまったら、という心配は杞憂にすぎなかった。今後のライブ予定が発表されたのだ。※詳細が確定したらmachako.jpでアナウンスできるようにしたい。

machako.jp-中川雅子(元TPD DASH!...
machako.jp-中川雅子(元TPD DASH!!)の情報を発信中 元TPD DASH!!(東京パフォーマンスドール)のメンバー、中川雅子(まちゃこ)の情報を集めた公認ポータルサイトです。

EN2.Weekend Paradise

温かい気持ちになれる曲。私がTPDライブへ通い始めた当時、TPDの原宿RUIDO公演は毎週土日だった。その頃、様々な悩みを抱えていた私には、原宿RUIDOでのTPDライブは文字通り「週末のパラダイス」だった。

メンバーにとっても、いつも最後に歌う曲であり、「無事に終わってホッとした」「あー疲れた、やっと終わるよ」「早く帰りてー」そんな表情を観ながら、私たちは「お疲れさま、ありがとう」「さあ、今日も飲むぞ」と思いつつ聴いた曲だった。まだ終わって欲しくないけど、次の週末に向かって前に歩ける気分にしてくれた曲。

今日この日も金曜日。そして今日もメンバーは、特に中川雅子は、きっとホッとしたことだろう。今日の原宿RUIDOには、あの頃と同じ、もしかしたらあの頃よりも、もっともっと「お疲れさま、ありがとう」が満ちあふれていたと思う。中川雅子の笑顔があらためて焼き付いた。

【追記】曲番の誤りを訂正しました。後日発表された公式のセットリストは以下の通りです。

まとめ

ステージ全体を通して、ひいき目抜きで、中川雅子が最も素晴らしかった。歌やダンスはおそらく現在出せる全てを出し切っていたと感じさせられた。それだけでなく、私が最も評価したいのは表情である。

本番中も考えることは他のメンバーよりも多かったであろう。しかしそんなことは微塵も感じさせなかった。それどころか、楽曲に合った表情を的確に出せていたのは、中川雅子と川村知砂さんの二人だけであったと思っている。クールな曲、可愛い曲、笑顔になれる曲、盛り上げたい曲、ボーカルを取っているときだけでなくバックダンサーのときですらそうだった。

そしてその表情に他メンバーが導かれるようにしていった感覚が、少なくとも私には感じられた。この二人が引っ張って行っている、役目を果たしている、そう感じたのだ。

くわえて、何度でも言うが、中川雅子の努力と信念が普通では考えられない奇跡を起こしてくれた。

本人にとっても値千金であったであろうが、メンバーやスタッフ、当時から応援してくれたアッキーさんをはじめとする関係者の方々、そして私たちファン。全てがハッピーだったと思う。単なる懐かしみではなく、今の「ひとりTPD」という景色を見せてくれたからだ。

あの頃、黄色いサムソナイトのリュックを背負っていた中川雅子、少しでも上に行かなきゃと度を超えたターンを披露してくれた中川雅子。イッコーさんに軽く注意されてピョンピョンしながら言い訳してた中川雅子。あの子が約30年後にこんなかたちで皆をハッピーにさせると誰が想像しただろうか。人生、生きていればいいこともあるんだな。なぜか自分の約30年も肯定された気分になった。

最後にひとこと。

当時のまさP通信では、私の狭い了見から感じた課題や改善点を中川雅子へ伝えることがよくあった。可愛かったよ、スゴかったよ、楽しかったよ、頑張ってね、だけでは「愛」ではないと思うからだ。

せっかく努力しているのだから、本人が気付いていないかもしれないことを指摘することで、1ミリでも良くなってもらいたい。99%が戯れごとかもしれない。しかし1%がヒントになってくれれば、それがいずれ中川雅子のためになってくれれば、そしてわずかでも私と出会えてよかったと思って欲しい。なぜなら、それ以上を私は中川雅子からもらっているから。そんな願いだ。独りよがりのキモいオタクの発想であることのは分かってる。うん、相当キモいな。でもこんなに思えたのは最初で最後、中川雅子に対してだけである。

しかし本稿に限っては、そして今は、そうした指摘等はどう考えても無粋であろう。また別の機会に、別の方法でそのあたりは本人に伝えたいと思う。

今はただ、言いたい。まちゃこさん、ありがとう。お疲れさま。そして次も期待している。

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